ポツダム

6月2日(水)

この日はベルリン滞在中で丸一日費やせる唯一の平日だったので、1日2000人しか入れないというサンスーシを見るべく、郊外のポツダムへ出かけた。

ロココの宮殿自体はそれほど食指をそそられるものでもなかった。だが、その隣にある絵画館には、カラヴァッジョの《トマスの不信》を含む、プロイセン王家由来の17世紀絵画コレクションの一部が蔵されている。これこそ私にとってのベルリン滞在のハイライトの一つとなるべきものなのだ。ベルリンに半年以上住んでいるはずの友人は、不届きにも絵画館の存在すら知らなかったので、この際連行することにした。

写真)ポツダム旧市街、オランダ人街の民家の窓。

最初の案では午前中に出て、サンスーシ宮と絵画館を見て昼飯でも食って帰ろうという話だった。でもそもそも出発が少し遅れ、ポツダムの旧市街を見ているうちに時間が過ぎ、結局夕方まで街に滞在した。今思うとノイエパレも見とくべきだったが、並木道の遥か彼方に霞んで見えるのを見た時、行く気を失ったのだった。しかしそのぶんというか、旧市街がなかなか良いところで、始めての北ドイツの田舎の雰囲気を楽しんだ。

旧市街

巨大なショッピングモールと一体化したポツダム中央駅を降り、橋を渡ると旧市街の外れに出た。窓ガラスが割れ、壁が剥がれかかったいかにも共産主義スタイルな雑居ビルの脇に荒れ果てた空き地があって、なぜかそのど真ん中に緑のドームを頂く新古典主義のこぎれいな教会がぽつんと建っていた。あまりのアンバランスな風景に絶句したが、聖ニコラスに捧げられたこの教会がシンケルの作になるとは、帰ってきてから知った。空き地にはかつて旧王宮が建ち、二次大戦の空襲で消失したが、今後再建される計画があるそうだ。

その先真っ直ぐ行くと道路が細くなり、いよいよ旧市街に入る。右手のペテロとパウロ教会の裏の広場でにぎやかな市場が開かれていた。旬の白アスパラが市場のそこかしこで売られていて、どれもとても美味しそうだったが、実はいつでも食べられるだろうと思っているうちに、結局食べ損ねてしまった。ここで買っておけばよかった。

駅から来た道を更に真っ直ぐ行くと、右手にオランダ人街と呼ばれている一角が現れる。一本中に入ると、石畳の道の両脇に、明るい赤茶色のレンガで建てられた八の字型の破風の家が整然と軒を連ねている。ギャラリーや土産物屋、レストランなどが入っているようだったが、道を塞ぐテラスや目障りな看板がなく、すっきりとして落ち着いているのが良い。これで車が止まっていなかったら、もっと雰囲気が出ただろうに、惜しい。

市街からサンスーシ宮に向かう目抜き通りが、歩行者専用のブランデンブルク通りで、カフェやレストランのテラスが軒を連ねている。こちらは賑やかな雰囲気で、活気があった。結構地元の人も、歩いて楽しんでいるようだった。順序が逆になるが、サンスーシを見たあと、3時過ぎ、ブランデンブルク通りのレストランで遅い昼食を取った。シュニッツェルのハンブルク風というのを頼んだら、目玉焼きが乗ったのが出てきた。それがハンブルク風なのか。

写真左)旧市街を南北に貫きナウエン門に至るフリードリヒ=エーベルト通り。右手がオランダ人街の一角。
写真右)オランダ人街。今オランダ人が住んでいるのではなく、フリードリヒ=ヴィルヘルム一世がオランダ商人をここに住まわせた。

サンスーシ

サンスーシ宮は、市外の西に広がる広大な庭園の中にある。庭園は、幾何学的に整形されている割に中心線上にメインゲートがない(見当たらない)。脇っちょの小さな入り口から入ると突然、背の高い杉(かな?)が並ぶ美しい並木道に出た。この心地よい並木道は宮殿の丘の真下まで続き、右手に直角に折れると、六段の植え込みで飾られた丘の下に出る。ウィーンのシェーンブルンを思わせる黄色に身を包んだ宮殿は、その丘の上にずいぶんとおとなしく、鎮座ましましていた。

裏手に回ってチケットを買い求める。ガイドツアーのみでの入場で、指定された時間まで1時間以上あった。そこでその間に隣の絵画館を見てきた。

サンスーシ宮は、まあこういうもんかな、という印象どおり。ツアーはドイツ語だったが、英語のリーフレットを貸してくれた。アントワーヌ・ペーヌというフリードリヒ大王お抱えのロココ画家による装飾が往年の絢爛さを伝える。リーフレットにワトーの《コンセール》が一枚あると書いてあって、それらしき野外で楽器を弾く人物の図があったが、ガイドさんはそれには触れなかったそうだ。

写真)庭園の並木道。

写真)サンスーシ宮を丘の下から見上げる。植え込みは葡萄のようだったが、こんな寒い地でも育つのだろうか。

ポツダム絵画館

ここの絵画館はビッグネームの作品を蔵している割にあまり知られていないようだが、実際知らなきゃわかんねーよというようなところに隠れ口のような入り口があった。サンスーシに登る階段を昇りきった脇から横道に入ると左の写真の入り口があり、ここから螺旋階段を下る。探すのに少し時間を食った。 

サンスーシ宮より一段低い丘の中腹に建つこの建物もフリードリヒ大王が作らせたものだ。なんでも美術館として建てられて今もその機能を保っている建築としては、世界一古いもののうちの一つだそうだ。横長のギャラリーの内部は、山側の壁に作品が掛かり、庭に面した壁には窓が並び、自然光が入るようになっている。橋から端までギャラリーを見渡すと、なかなか見事な眺めである、眺めているだけならば。

というのも、今どき珍しく―どうやらわざとそうしているらしいのだが―、作品が壁を埋め尽くすように2段3段に重ねて掛けられているのである。しかもキャプションもなく、額に付された番号を手持ちのシートと照らし合わせながら見るなければならなかったし、おまけ光がダイレクトに絵に当たって反射しているではないか。まさに、最悪の展示環境である。

写真)絵画館の入り口。飛んだ写真ですいません。

肝心のコレクションは17世紀イタリア、フランス、フランドルに的を絞ったもので、その分野ではまずまず充実している。でもこういうセッティングで一番割を食うのが、まさに17世紀の背景の黒い絵なわけなんだよね・・・。

カラヴァッジョ《トマスの不信》も、光がモロに反射してろくに見えやしなかった。そして写真で見るよりもずっと暗かった。しかし、それでも凄い絵だったことは明記しておかなければならない。似たような半身像の横長構図でもMETの《ペテロの否認》なんか目じゃなく良い。まず4人の実物大の人物が、というか4個の「肉体」がドカンとそこに存在している。そしてその圧倒的な存在感の肉体が、トマスの疑念が信仰へと変わる心理的なドラマを具体的で現実の出来事として見事に提示している。カラヴァッジョが信仰という抽象的な概念をいかにして普遍的なメッセージとして絵画に表現しようとしたのか、それが如実に現れた傑作であると思う。

また、フランドルのカラヴァジェスキとして重要なニコラ・レーニエの《エマオの晩餐》は、カラヴァッジョ伝来の構図を用いながら、テーブルの手前にちょこんと後ろ向きに座った犬がチャーミングな作品。同じ画家の《盲目のホメロス》は、ピカレスク風にグロテスクな、ヴァイオリンを弾く片眼の老桂冠詩人。カラヴァッジョの去ったミラノで活躍したジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニの《キリストと姦淫の女》もよかった。フランドル派では、若きルーベンスのイタリア的で力に満ちた筆を堪能できる2枚、《瞑想の聖ヒエロニムス》と《四使徒》が見事。前者は板絵のミケランジェレスクな筋骨隆々たる老聖人図だが、支持体の硬質さが人物像に程よく引き締まった質感を与え、画家後年に典型的なデブデブタプタプな人物とは一線を画した佳作だ。

ところで、今ポツダムの絵画館にある作品は、どういう経緯で―誰によってどういう意図の元に―プロイセン王室コレクションからここに伝えられたのだろうか。現地で金欠のため(シティバンクのせいだ)ガイドの類を買わなかったので詳しくは分からないのだが、持ち合わせるわずかな資料から判断する限り、すべてが18世紀からずっとここにあった作品ではない。プロイセン王家(とその美術館)のコレクショニズムと絡んで、興味深いテーマだと思う。もうよく研究されていると思うが。

例えばルーベンスの《四使徒》はフリードリヒ大王の時代に買われた作品のようだが、しかし、プロイセン王家の絵画コレクションの大半は19世紀に買われた作品から成っている。イタリア17世紀絵画コレクションの多くは、フリードリヒ=ヴィルヘルム3世の治世中1815年に購入されたローマのジュスティニアーニ家のコレクション(157点)に由来する。その多くは、戦前のカイザー・フリードリヒ美術館を経て現在ベルリンの絵画館に収まっているようだ。

しかし、同じ伝来のカラヴァッジョの《トマス》は、すさまじい変遷を辿る。1829年にベルリンの王宮で確認された後、1883年にはポツダムのノイエ・パレに蔵され、その後シャルロッテンブルクに移されたかと思うと1930年には再びノイエ・パレに戻り、1942年には戦争のためか北ドイツのラインスブルク城へ移され、戦後ソビエト軍にぶん取られ、1958年に返還され、1963年にようやくポツダムの絵画館に居を定めるのである。

ところがややこしいことに、レーニエの《エマオ》をはじめとする20点は、やはりジュスティニアーニ家伝来ながら、1830年の時点でポツダムの絵画館に蔵されている(戦後ソビエトにぶん取られるが)。なんだか一筋縄ではいかない作品が集められているのだろうか。

答えは妄想の域を出ないのだけれども、単純にベルリンの美術館に入れてもらえなかった作品たちなのかしら、とも思う。そうならそうで、作品の選定は時代の趣味の変遷を反映するから、面白い。ベルリンに美術館が作られ、コレクションが形成されていった1830年以降、新古典主義からロマン派の価値観が広く波及する時代、17世紀絵画というのはオールドマスターの中で一番評価されなかった分野だったであろうとは容易に想像がつく。するとポツダムに16世紀以前の作品がないことや、17世紀でもレンブラントはなく、フランス古典主義の作品は大したものは残っていないのも、納得がいく。ジュスティニアーニ伝来のイタリア作品の中でも、数少ない16世紀のヴェロネーゼやロットはベルリンに行き、レーニエはポツダムに残った。ルーベンスも(怪しいのは除くと)初期が2点というのは、何がしかの価値判断の元で選定された(されなかった)結果だ、という可能性はあろう。

話が飛んだが、こんなのをちゃんと読めばもっと分かると思うのだが、いやその本手元にあってぱらぱらと読んだのだけれども、いずれ時間があったらもう少し読んでみることとしたい。まあ今回はこんなところで。

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